雨が降って寒寒としている
さむざむ

気分の落ち込むことがあったので、志ん朝の落語音源をひたすら聴く
何度繰り返し聴いたものでも、やっぱりふふふと微笑んでしまう
推しという概念、未だに「好き」や「応援」とどう違うのかよくわからないけど、志ん朝は推しかもしれないな…
未発表音源とか聞くと飛びついてしまうし、どんな媒体でも聴いたことある見たことあるっていう状態にしておきたさがある
その割にまだ持ってない聴いた事ないやつまだいっぱいあるけど!
DVDとかCDのBOX、それぞれ3万前後して集めるのが大変

落語は同じ噺でもいろんな噺家によって語り口や登場人物の魅力が変わってくるのが面白い芸能だけど、それを思うと、私は落語がというより志ん朝の落語が好きなんだなと思う
ほかの噺家さんのもたくさん聴くけども
それでもやっぱり随一、唯一の存在

もともと、好きなアーティストとかも、なるべく追いはするのだけど、すべてを追いかけたいとか知りたいとはあまり思わない
課金はできる限りする方だけど、身長や体重、恋人の有無などはその人がありたいようであってくれ〜がすべてで、私は知らなくていい
好きなら全部の情報を追うのが当たり前、好きなものくらい全部知ってますと胸を張れるようにしろ、と大学の頃なんかの授業の先生が言ってたけど…
そもそもすべてを知るなんて無理だし
私みたいなやつはちょっと調べただけで全部わかったような口をきいてしまいそうだからな
だから、適度に知らない事があった方が気楽で、長く付き合っていける(私はね)
何が好きとか誰と何したとか、私が知ってても知らなくてもいいから、その人が仕事・プライベート関係なく、なるべく少しでも幸せを感じて過ごしてほしい
そうしてその人が生きていくなかで創ってくれたものを通じて、触れ合えたらいいなと思う
本当にこれで好きと言えるのか…と我ながら思うこともあったけど、最近は自分の好きはこういう形だなと思うようになった
あなたがすべてだ!と熱狂することや、すべてを知りたい!と思うことも、人生を輝かせる素晴らしいものだけど、淡く何かに好感を持ち続けることもまた「好き」の形だと思う
何かを淡く「なんか、いいな…」と思える、思い続けられるのはめちゃくちゃ幸せなことだ

でも今は直接気持ちを伝えたりできる時代だから、なるべく「好きです!あなたの作るものは最高なんです〜!!!」と表現していきたいなとも思う
それも全部が全部出来るわけじゃなくてもどかしいけど
伝える機会やツールがあるのに伝えないでいると、まるでそこまで好きじゃない…みたいになってしまうもどかしさ無いですか?
あと逆に、伝える機会やツールがあるのに自分の「嫌」の感情を伝えないでいると、それもまるで無かったことになってしまう(のが嫌!だから伝えてやる!)もかなりある気がする
何を好きか嫌いか、いいと思うか嫌と思うかと、それを伝えるかどうかは別のことなのに

落語の話に戻るけど
「唐茄子屋政談」に出てくる、若旦那が唐茄子(かぼちゃ)を売るのを一緒に手伝ってくれる見知らぬ男が、落語の登場人物で一番好きかも
名前とか特に無いのがいい

こないだ2/29のうるう日に、うるう秒とかもあった気がする、細かすぎておもしれ〜的な事を書いてたら、2035年までにうるう秒は廃止されるという記事が上がってた
そんな大変な事だったんだ

オレンジジュースを守るボーちゃん
オレンジジュースを守るボーちゃん
これ、他のキャラはみんなあっぷっぷで変顔して笑わせるというコンセプトのガチャガチャなのに、ボーちゃんだけが何かを守っている
ボ…!